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サイズは、口径4,8×高さ19,5×胴径15×底径9,2㎝です。経年の小傷は多少ありますが、ダメージとなるようなホツやニュウはございません。古い時代の小鹿田焼雲助徳利、口付き徳利です。美品です。
民窯・民陶小鹿田焼きは、大分県の西部に位置する日田市 皿山に戦国時代大陸より連れてこられた焼き物職人の集団が開いたといわれています。バーナードリーチ氏、柳宗悦、など民芸復興運動の中心となった人々が滞在して指導したといわれています。今でも、共同の登り窯で1週間以上かけて焼き上げる、しかも薪でじっくりと焼き上げる本物の焼き物です。
小鹿田焼が生まれたのは今から300年近く前、1705(宝永2)年のことでした。日田郡大鶴村の黒木十兵衛が、福岡県朝倉郡小石原村の陶工・柳瀬三右衛門を招いたことに始まります。三右衛門は十兵衛とともに窯業に適した地を探し、小鹿田に李朝系の登窯を築いたのです。この地が選ばれた決め手は、登窯の築窯に適した斜面があったこと、また豊富な陶土や薪、そして水力の利用に便利な自然環境であったからと考えられています。
小鹿田の窯が一躍脚光を浴びるようになったのは、1931(昭和6)年のある出来事がきっかけでした。『どんな窯でも多少の醜いものが交じるが、この窯ばかりは濁ったものを見かけない』と驚いた宗悦は、後に「日田の皿山」という紀行文を発表し、賞賛したのです。以来、豊後の山奥で焼かれる無名のやきものは小鹿田焼と呼ばれるようになり、日本の代表的民陶として広く知られるようになりました。1954(昭和29)年には、かのバーナード・リーチが最初の訪問をし、3週間滞在しています。
その後小鹿田焼は、1957(昭和32)年に県の重要無形文化財となり、1970(昭和45)年には国の記録保存文化財、そして1995(平成7)年、国の重要無形文化財(総合指定)に指定されています。
開窯当時の純粋性を保つ小鹿田皿山。この異色の陶産地には、今日も唐臼が響き、家族総出のやきもの作りが、淡々と続いています。
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